積善寺縁起
積善寺には、寺の歴史(縁起・来歴)を伝える古文書があります。
ここにその原文と解説を掲載します。
縁起・来歴(原文)
積善寺は、山号を福王山と称し、本尊阿弥陀如来を安置す。
当山は、役乃行者の創建にして開基は厥(そ)の檀主初雁の姓某甲と云ふ。祐源和尚中興の祖と
称し、其の原由を尋ねるに、精舎の後嶺に雁城と称す古城あり。該の山南面の中腹に井泉湧き
出る所あり。往昔の慶雲三(706)年の夏諸国大旱魃す。其の時に役乃行者の徒弟に積善という行者
があり、慈光山の金ヶ獄に修行と玉う。ある日この嶺に登り臨め龍頭三躰を彫刻し彼の井水
を汲んで閼伽水となし、桂源の神法を修練し雨乞い祷し玉えば迅速に霊験ありし旧跡あり。
其の後天慶(938〜)の兵乱に罹り、堂宇を悉く灰燼と化す。応永十八年(1411)比企、小高の両氏檀主となり
再興すと雖も程もなく亦荒廃する。伯耆(ほうき・鳥取県)之国大山寺に祐源沙門あり回国修行の砌り此の
地に来りここに錫杖を掛け修行し中興の祖となる。再来令法久住国家守護のため五社
権現を勧請し山内に神祠を建立鎮守と崇め堂供養の際は金光明護国最勝王経の法磐を
鳴らし玉う。この故に号を護福王山泉明院積善験寺と称す。云々。
縁起・来歴(解説)
積善寺は、山号を「福王山」といいます。本尊は阿弥陀如来です。当寺は役小角(注1)が創建したもので、檀家の長であった初雁の何がし(名は不明)が中心
となり建てられたものです。祐源和尚を中興の祖としています。
寺の起源を、ひもといてみると、寺の裏山に「雁城」(杉山城)という古城があり、その城の山の南面に清水の涌き出る場所がありました。706年の夏は日本
全国が大干ばつに見舞われた年でした。当時、役小角の弟子に「積善」と名乗る
慈光山(注2)の金ヶ獄で修行をした者がおりました。積善が大干ばつに困っている、地元杉山の民衆の苦しみを見かねて、
杉山城に登り、龍頭を三体、彫刻した後、南面の清水を汲み、仏に捧げる水として密教修法を修し、雨乞いをしたところ
たちまちに天から慈雨が降り注いだと伝えられています。
その後、天慶(938〜)の兵乱に巻き込まれ、寺の建物は全て焼失してしまいました。時代は下り応永十八年(1411)には比企、小高(注3)の両氏が檀
主となり再興しましたが、程なく寺は又荒廃してしまいました。そこへ伯耆(ほうき・鳥取県)の国
の大山寺に祐源という僧侶がおり、諸国を回り修行をしておりました。さまざまな縁により、杉山を訪れたとき積善寺を最後の修行の地と決め、中興の祖となり
ました。国家安泰、民の幸せを祈念し、五社権現(注4)を修法により呼び集め、山内に神祠を建て鎮守としました。祠を経てる時、その供養には金光明護国最
勝王経(注5)を神仏に捧げました。そのため当初の名称を護福王山泉明院積善験寺といい、現在は積善寺と称しています。
※(注1)一般に役小角(えんのおづの、おづぬ、しょうかく)と呼ばれる。応神道の名家賀茂一族の分家の出で、奈良時代
に葛城山の麓に生まれ(634年)、古代から続く「山岳信仰」の一部を引き継ぎつつ、修験道と密教の基礎を築いたと伝わる。多くの不可思議のな逸話を残すため、宗教家ではなく呪術者や妖術使いのようにも伝わっているが、「山岳信仰」に「仏
教」とくに「密教」の要素を取り入れ、加持の力で日本全国で奇蹟を起こし、その伝説は各地に伝る。滝沢馬琴の「南総里見
八犬伝」にも登場。
※(注2)都幾川村(現ときがわ町)、慈光寺と思われる。当時慈光寺は山岳修行の地であった。
※(注3)比企氏=比企能因が有名。東松山市大谷周辺が拠点。鎌倉時代、源頼朝の乳母方として、勢力を振るうが北条政子らに滅ぼされる。
小高氏=鎌倉時代、滑川町福田に館を構えた豪族。 ※(注4)五社権現とは、大宮大権現、客人大権現、梅宮、火宮、剣宮。日本古来の神々が仏教徒と結びついた。権現=姿・
形をかえるという意味。ここでは五社に祀るそれぞれの神を本地仏という姿に変えている
前記の5つの神がそれぞれ、虚空蔵菩薩、十一面観世音菩薩、勝軍地蔵菩薩、聖観世音菩薩、倶利伽羅不動明
王に化身する。いわゆる本地垂迹説である。
※(注5)鎮護国家の為に誦される経典。天平時代(740年頃)、聖武天皇の詔により、律令体制のもとに仏教の力によって国内の社会不安、疫病などを鎮
め、国家の安全、五穀豊穣、万民豊楽を祈願するために各地に国分寺が建設された。当時既に、国家は氏族の首長が官僚となり、寺院は国家の管理に入りつつ
あった。それらの寺院には早くから「金光明最勝王経」や「仁王護国経」など、護国経典が置かれ、僧侶がそれらの経典の読誦講宣の役割を担う。「金光明最勝
王経」等を転読することで、国家安泰、万民豊楽を願った。
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