○普賢寺の民話・伝説
1.普賢寺の子育て地蔵
旧街道は切通しになっていて、ゆるやかな坂を上がっていくと時宗の万福寺の山門が見えてくる。
その左側に「天台宗普賢寺」と刻された石柱が建っている。
普賢寺にお参りするには、石段を上がっていったというが、今は舗装され、かなりな急坂となっている。坂の上がり口にお地蔵様が建っている。台座の正面に「武州比企郡地蔵念仏供養尊を造立し奉る 奈良梨村」と刻され、右側には「享保丙午(ひのえうま)年三月吉日」左側には「願主鈴木何某 他同行四十名」と記されてある。
享保丙午は11年(1726)になる。時の住職は九世運海だったと思われる。奈良梨村あげての「地蔵念仏供養尊」の造立であれば、盛んな開眼法要が厳修されたのではなかろうか。時代は徳川幕府八代将軍吉宗公の治世で、「諸事権現様通り」を幕政の手本として、貨幣の改鋳、法令の整理・編纂、殖産興業、新田開発の推進、あるいは学問、武芸に実学を奨励するなど、多方面にわたる政治改革が断行された時代だった。
当山のお地蔵さまは「子育て地蔵」として、信仰されてきたが、はじめは、地蔵さまを大地の徳として信仰していたのではなかろうか。「地蔵十輪経」の偈に「よく善根を生ずるは大地の徳のごとし」とあるように、地蔵様は、法界衆生の善根の種子を保持し、衆生のために衆苦を代わり受け、無量劫を経ても失わないと信仰されていた。その後、「地蔵十王経」が説く「極悪罪人の海、よく度して導くものなし、地蔵の願船に乗らぱ、必定して彼岸に到る」によって、阿弥陀浄土教の隆盛のもとでも、現世利益だけでなく、来世の菩薩として人びとの心をとらえ、念仏供養が行われるようになった。
もっとも、この当時は饗の河原の和讃によって、地蔵さまは子供の守護神という信仰が生まれていた。
〜昔の話じゃ。〜
村にひとりの嫁御がいた。働き者で気立てのいい嫁だったが、子供に恵まれなかった。姑は孫の顔見たさに、ついつい愚痴をこぼし「子も産めない嫁じゃ、穀つぶしの役たたずじゃ、あア、お前のせいで、この家も、おしめえだ」と、ためいきまじりに嘆いてばかりいた。嫁は姑の愚痴をきかされても、我慢をするしかなかった。
嫁御は、ふと普賢寺に参る坂の途中に建ってござった地蔵さまを思い出した。人の寝静まったある夜、そっと家を出てお地蔵さまにお参りをし、「どうぞ、子を授け給え」と、一心に祈願をした。夏から秋、そして初冬に季節が移っていった。お参りをはじめてから、ちょうど百日目、嫁のひたむきな願いがかなって、お子を身ごもり、月みちてまるまる肥った元気のいい男の子に恵まれた。
姑の喜びようは、それはそれは大変なものだった。朝起きると赤児を抱いて
一日中子守をしてくれたが、それがかえって抱き癖となって、赤児は夜泣きをするようになった。夜になると火がついたように泣きじゃくった。野良仕事で疲れきっている家人も、
一日、二日なら我慢もしてくれようが、毎晩の夜泣きとなると辛抱しきれない、何とか泣きやませろ、うるさくて寝られやしない」と、嫁を叱りつけた。
嫁御は、赤児を抱いて、家を出た。行く当てもなく歩いていくと、普賢寺のお地蔵さまの前に立っていた。すると、あれほど泣いていた赤児が、不思議に泣きやんでしまった。嫁御は「この子は、お地蔵さまに授かった子だ。ありがたいことだ」と、思わず手を合わせていた。
この夜から、赤児がぐずりはじめると、嫁御はお地蔵さまを念じて、あやし続けると赤児は健康そうな寝息をたてて眠りについた。初雪が降った寒い夜、嫁御はお地蔵さまも寒かろうと赤児の着物をもって寺に行き、その着物をそっとお地蔵さまに着せかけた。降り積もった雪を払い、凍える手でお地蔵さまを撫でていると、お地蔵さまに人肌の温もりを感じてきた。嫁御は「どうぞ、赤児が丈夫に育ちますように、お守りください」と念じた。
その時、どこからともなく人の話声が聞こえてきた。この夜更け人がいるはずがないのに、確かに聞こえてきた。じっと耳を澄ましていると「夜泣きをする子は丈夫に育つぞ」と聞こえてきた。
嫁御は、これはきっとお地蔵さまがおっしゃっているに相違ないと思い、声のする方へ向かって手を合わせ「なむ
じぞうさま なむ じぞうさま」と念じた。涙がとめどなく落ちてきた。
その後、赤児は病気らしい病気もせず、すくすくと成長して 素直なこころの優しい少年に育っていった。親に仕えては孝養を尽くし、人に接しては思いやり深く、村のだれからも親しまれ、人も羨む青年になったという。
この話が、いつしか人から人に伝えられ、普賢寺のお地蔵さまは「子育地蔵というぞ」「いやいや、夜泣き地蔵さんよ」と信仰され、近在の評判になった。病弱な子を持つ親や夜泣きに悩む親、子どもに恵まれない女人などが地蔵参りをし、願いごとがかなうとお地蔵さまに着物を着せかける習わしが、いつの間にかひろまっていった。
普賢寺の「子育て地蔵」は、つい最近まで4月14日をご縁日として、みずき、榎などの小枝に餅花をさしてお供えし、春の野の花を飾って、子どもの健やかな成長を願う法要が営まれてきたという。ありがたいことに、いまでも繭玉だんごが供えられ、お参りをする人が絶えない。
2.普賢寺に参籠する白蛇
この話は、いい伝えでも作り話でもない。本当の話じゃ。普賢寺の裏山のあたりから湧き
出る清水が、小さな流れをつくり、崖にかかって滝となる。滝というほどのものじゃないが、わしらは、こどもの頃は滝だ、滝だといって水しぶきを浴びて遊んだものよ。その水がふたたび流れとなって、お諏訪さまの杜を抜けて田畑に落ちていく。お諏訪さまの池に白蛇が棲んでおった。村の人は、明神さまのお使いじゃ、池の主じゃと噂をしていた。その白蛇がな、時折流れをさかのぼって、普賢寺にお参りをする。白蛇は普賢寺の裏山からご本堂の床下に入り、ご本尊の下あたりに身を横たえて、日がな一日じっとしている。それはまるでご本尊のお説法に聴きいっているようなようすだった。
普賢菩薩は、巳年、辰年生まれの守り本尊だそうな。また、女人成仏を説く「法華経」を護持する仏様だともいうそうな。ご仏縁とはありがたいものよのう。 村の人は、この白蛇を崇めておった。日照りが続いて流れが枯れ、田畑の作物が根腐れするのじゃないかと心配していると、きまって白蛇が姿を見せた。昼日中だというのに雷雲が空を覆い、あたりが真っ暗になったかと思うと、夕立がやってきた。篠つくような雨がたんぼや畑を潤していく。白蛇の霊験はそれはありがたいものじゃった。
物の本によるとおすわさまのご神体は竜蛇だそうな。「諏訪大明神画詞」(すわだいみょうじんえことば)に、こんな話があるという。弘安2年(1279)己卯、夏の神事の時、日中に大竜が雲に乗って西の方に向かって行った。人々は茫然と立ち止まって大竜を見送った。大竜の脾腹が雲間から見えたという。「何の前兆か」と心配する人もいれば、「明神さまが、お救いくださるに違いない」という人もいた。それから翌々年、蒙古の大軍が日本に攻め入ってきよった。その時大暴風雨が起こって敵の兵船をことごとく転覆させてしまったという。明神さまの大竜が、日本の危機を救ってくださったのじゃ。お諏訪さまは、風の神さまだという。また、白蛇をして水の神とする信仰も昔からあったようだ。
奈良梨のお諏訪さまには、信濃の国から勧請したという普賢菩薩と諏訪神像が祀られている。普賢菩薩は普現色身(ふげんしきしん)といって人々を教え導くために、様々なお姿に身を変えられて現れるという。白蛇もまた普賢菩薩の化身か、あるいはお使いなのではなかろうか。
寺の和尚さんは「人としての本当の生き方、あり方を教えてくれる人や、他人のために少しでも手助けをしてくれる人がいたら、それは普賢菩薩かも知れませんよ」といっていた。なんとも不思議な話だか、これからも神を敬い、仏様の教えを信仰して、穏やかな暮らしを送らせてもらいたいものじゃ。わしら、心からそう念じているよ。
3.普賢菩薩のご功徳
仏の心を学ぶものは、普賢菩薩に出会うという。そのお姿は、六本の牙を持つ輝ける白象に乗り、その上で静かに合掌しておられるとか。牙は人間のつまらない煩悩も迷いの心も噛み砕き、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を清浄にすることを意味しているという。
南岳大師、慧思(えし)は少年のころ、白象に乗った普賢菩薩がやってきて頭をなでて行った夢を見た。するといままで分からなかった経文が自然に理解でき、また撫でられた所が盛り上がり肉?(結い髪)のようになったという。湛然(たんねん)の「止観輔行」に記されている。
我ら凡夫なれど、諸仏に守られていること、善をなし、仏になることを信じ、他人の手助けなど普賢菩薩の行を行じ、普賢菩薩に出会いたいと願う。
日下部 公保 師 著 「普賢寺物語」より抜粋 一部修正