杉山城の門前寺
積善寺は国指定の史跡「杉山城址」の門前に位置します。名城「杉山城」についてご案内します。
杉
山城跡は、戦国時代の山城跡です。積善寺も位置する鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上にあります。10の郭を配置した縄張り(城の建物などの配置)となって
いて、各郭には様々な工夫が凝らされており、攻めてくる敵兵に対して、強い防御力と攻撃力を誇っています。その作りには高度な築城技術が施されていて、
「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」という評価がされてきました。
戦国時代の初めころ、関東では関東管領「山内上杉氏」と同族の「扇谷上杉氏」による抗争がありました。「長享の乱」と呼ばれる一連の戦いのなかで、当時
の嵐山町は、山内上杉氏の拠点である「鉢形城(寄居町)」と扇谷上杉氏の拠点である「河越城(川越市)」の中間にあり、長享2年(1488)には須賀谷原
(嵐山町)で多くの戦死者を出す激しい戦闘がありました。
杉山城跡から出土した遺跡の年代は、この戦いの少し後にあたります。そのことから杉山城は「山内上杉氏」が「扇谷上杉氏」に対抗して築城したものと考えられます。
積善寺の開山も西暦1500年代初頭です。その積善寺と杉山城の関係は、天台宗寺院、密教の寺であるということからも、その結びつきの深さは容易に説明
がつきます。なぜなら密教の寺で「護摩」を焚き、必勝を祈願し戦に臨むことが当時の慣わしであったからです。往時の武士が積善寺の護摩堂に参内し、積善寺
の先達である行者に依頼し、護摩を焚く光景が目に浮かびます。
杉山城はこれまで「後北条氏の城」として広く認識されていましたが、学術的な裏づけはありませんでした。そこで町で平成14年度から18年度にかけて5
回の学術発掘調査を実施しました。その結果、城跡の年代が15世紀末から16世紀前半であり、山内上杉氏によって造られた城であったことがわかりました。
こうした学術的な成果により、杉山城跡が高度な築城技術の特徴をもち、良好な保存状態で当時の政治・軍事の様相を良く示していることが高く評価され、「比企城館跡群」のひとつとして平成20年に国史跡に指定されました。【嵐山町HPより参照】
嵐山町教育委員会パンフレット表紙写真 (左上部に位置するのが積善寺です)
■杉山城へ来られる方へのお願い
ご来城の際は、積善寺には駐車できません。必ず町指定の玉ノ岡中学校北側の専用駐車場をご利用ください。積善寺より城跡に近い位置にある駐車場です。お帰りの際には、時間があれば、当山もお参りいただきますようお願いします。